レビュー

[展示]夜明け前 知られざる日本写真開拓史 総集編

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現代アートの講座・読み書き工房第二回は指定の展示(東京都写真美術館での日本の初期写真の展示)を事前に見てライティングするというもの。送付したテキストを以下に貼り付けます。講座の前に皆のテキストが共有され、講座にてディスカッションを行います。ディスカッション後にリライトしてみようと思ってます。

(写真は以下のテキスト中に書いた新聞記事より)


日本における写真との「であい」、「まなび」、「ひろがり」にフォーカスした構成で、写真術が日本に持ち込まれて以来どのように日本中に伝わっていったのかを当時の写真や機材などで紹介する展示だった。

1854年ペリー来航によって持ち込まれた写真術(*1)。展示からは、その20年後には写真館で市民が撮影された写真が残されていることがわかり、写真の伝播のスピードが早いような気がした。その一因は、外国人居留地(函館、横浜、神戸)の存在だったのではないだろうか。つまり、外国人が居留したところに写真が伝わり、そこに住む日本人に写真術が伝わる、という具合に。

また、写真の記録性の高さゆえ当然といえばそうなのだが、西南戦争(1877年)、日清戦争( 1894-1895年)、明治三陸沖地震(1896年)などが写真として残されていることには正直驚いた。 ひょっとしたら当時の日本の写真家たちもクリミア戦争(1853-1856年)や南北戦争(1861-1865 年)が写真に収められていた事を見聞きしていたのかもしれないが。

一方、日本人にとって当たり前な光景を撮った写真は、日本を訪れた外国人旅行者向けの土産物として人気を博したらしい。展示されていた横浜写真と呼ばれる写真群からは、積極的に演出しようという意図が感じられた(武将の格好などのコスプレ、ポーズ、着色)。こちらは今の観光ハガキのようなものであろうか。また、売り物かどうかは不明だが、徳川家康など著名人の肖像画を手札サイズの写真にしたものも展示されており、昭和のプロマイドのように思えた。

「であい」、「まなび」、「ひろがり」があった幕末から明治の写真だが、後世への「つたわり」は どうだったのだろう。そう考えさせられたのは、明治三陸沖地震の写真のプロジェクター展示を見た ときだった。つぶれた家屋、津波で陸に打ち上げられた船、流されてしまった沿岸地域。これらの写真からは、まるで3.11のモノクロ写真を見ているような気にもなった。ナイーブすぎる意見かもしれ ないが、これらの写真が今に伝わっていたら3.11のときに波にのまれて亡くなる人ももっと少なかっ たのではないだろうか。

もっとも、「つたわらなかった」のは、地震の写真に限った事ではないだろう。昔の写真は各地方の蔵などに埋もれていて、研究者がコツコツ発掘していったと聞いた事もある。どのようように発掘されたのか、どんな困難があったのかなど展示では触れられていなかったが、「結び」の形で多少は言及されていても良かったのではないか。

後日、新聞で幕末の肖像写真のような写真を見つけた(*2)。記事を読むと、今を生きる人々の写真 で、福島県の相馬野馬追の装束(甲冑)を身につけた人々を古典技法で撮影したものだった。一見幕 末の写真と同じなのに、現在の写真だと知ったときの不思議な気持ちは言葉で言い表せないものがある。撮影したのはエバレット・ブラウン。なんと、1854年にペリーと共に日本に来て田中光儀の肖像写真を撮影した写真家(エリファレット・ブラウン・ジュニア)は、エバレットさんの遠縁の先祖だという。これは、展示を見なければ気づかなかったことで、そういう副産物を得たことがうれしい。

(*1)展示ではそのように紹介されていたが、ペーリー来航以前にオランダからの船でダゲレオタイプの写真機が持ち込まれ薩摩藩に渡ったという説もあるようだ。

(*2)5月7日東京新聞・こちら特報部「相馬野馬追の肖像 米国人カメラマン撮影」